平井堅が日本を代表するトップアーティストであることは、誰の目にも明らかだろう。
いわゆる名曲を量産する力を持つ平井堅は、毎年のように高クオリティの楽曲を提供しているが、2017年に発売された「ノンフィクション」は、平井堅しかできない、そして現代でしかできない珍しい曲となっている。
ただ良いメロディと歌詞が合わさって、歌唱力の高い歌手が歌うだけでは、決してこのノンフィクションは完成しなかったと思われる。
現代という環境で平井堅が歌ったこと。ノンフィクションはある意味で1つの奇跡によって成立している曲であるため、その意味をぜひリスナーに考えてみてほしい。
ノンフィクションは死を思わせる
ノンフィクションの歌詞には、さまざまな解釈が採用される。
陰鬱な中にある希望だったり、絶望に向かう行軍だったりと、人によって考察の結果は変わるだろう。
しかし基本的にノンフィクションの中で表現されているのは、まぎれもない「死」だと想像できる。
ノンフィクション
それは歌の雰囲気や言葉から推察することもできるが、このノンフィクションに限っては、平井堅が口にしたエピソードが下地となったことで、よりリアルな空気感を手にすることになった珍しい事例となっている。
平井堅は某歌番組に出演した際、ノンフィクションの制作に友人の死が影響していることを口にした。
それは楽曲を直接説明することにはならないが、「この歌には深みがある」と思わせるのに、十分な効果を与えたことだろう。
エピソードを聞いたリスナーは、ノンフィクションの歌詞や彼の歌い方を深読みし、その楽曲の深層まで簡単に入り込むことができるようになったのだ。
これは音楽が多すぎて聴き浸ることが少なくなった人たちにとって、音楽の良さを再確認させる結果となっただろう。
現代だから成立した神秘さ
現代ではときどき、情報の氾濫が危険信号として叫ばれている。
しかし平井堅のノンフィクションは、この情報の多い社会だからこそ魅力を勝ち得たといえるのではないだろうか。
「平井堅 ノンフィクション」で検索すれば、上記で挙げたエピソードは簡単に入手できる。youtubeのコメントでもそのエピソードを前提にして聴いている人が多く確認できるだろう。
つまり平井堅のノンフィクションは、現代のインターネット環境を土台として、「死」というテーマがそこにあることを示しているのだ。
これがもし、あまりにも直接的な言葉によって「死」が表明されていたら、ここまで人の心を打つ名曲にはならなかったかもしれない。
あくまで歌詞そのものは曖昧で、それぞれの解釈ができるように留める。しかし自身の言葉やインターネットによって、確実にそのテーマ性が広がっていくようになっているのだ。
かつて彼は「瞳をとじて」という曲でも、同じように「死」を楽曲の中で連想させている。
瞳をとじて
しかしこのときと明らかに異なるのは、その「死」というテーマに行きつくまでの道中だ。
映画主題歌として最初から内容をある程度想像可能だった「瞳をとじて」とちがい、ノンフィクションは自分から検索したり見たりしない限り、そのテーマ性がはっきりと表には出てこないようになっている。
これがリスナーのカタルシスを刺激し、より大きな感動を呼ぶことになったのではないだろうか。
死の前提があるからこそ歌詞の問いが活きる
ノンフィクションを聴いた後、リスナーは自分で検索して「死」というテーマに行きつくだろう。
その前提があるからこそ、サビの部分で繰り返される「問い」が活きてくるのだ。
ノンフィクションの歌詞には、人生観や死生観に対する緊張度の高い「問い」が書かれている。
それは普通の曲であれば聴き流してしまいそうなほど見慣れた問いだが、「死」という前提を持つノンフィクションによって問われることで、それは1人1人の胸を激しく叩くような言葉に変わっていく。
曲の中で死を思わせるのと、聴く前から死を思わせるのでは、視聴時に与える印象が大きく変わることだろう。
ゆえにノンフィクションを聴いたときに感じる切なさや熱さは、現代という舞台でしか演出できなかったのではと思わされるのだ。
現代の音楽性を問う楽曲
音楽という完成品に対して、さまざまな情報が付着することは、この現代では避けられないことだろう。
それを「音楽が不純になった」と落胆するのは簡単だ。
しかし平井堅のノンフィクションが示した通り、その情報があるからこそ成立する感動も音楽には存在する。
音楽は今や、それ単体で存在するものではなくなっているのかもしれない。
平井堅のノンフィクションは、そうした新時代の音楽を想像させる楽曲として、まだまだ多くの人たちに聴かれていくことだろう。