アーバンギャルドというバンドをご存知だろうか。
自らの楽曲を「トラウマテクノポップ」と称し、赤地に白の水玉やキューピー人形をアイコンとしたポップロックバンドだ。
浜崎容子と松永天馬の男女ボーカルで、メンバーにはテクニカルギタリストの瀬々信と元ザ・キャプテンズのおおくぼけいがいる。
2007年に浜崎が加入したのをきっかけに活動を本格化し、2011年にメジャーデビューした。
アーバンギャルドの楽曲は、痛いほど胸に突き刺さるガーリーで現代的な歌詞と、耳障りよくデコレートされたメロディが持ち味。
歌詞は松永天馬がほぼ手がけている。
今年は2年半ぶりのニューアルバム「少女フィクション」を発売予定なので、ぜひともこの記事でアーバンギャルドの魅力について触れて欲しい。
セーラー服+血糊+キューピー=ポップ!?
私が初めてアーバンギャルドと出会ったのはこの楽曲だ。
「セーラー服を脱がないで」
浜崎演じる少女が、自分の生と性について悩み、思春期特有の自殺願望を口にする歌詞である。
「先生」を演じる松永はなんの「先生」なのか言及されていないが、学校の先生ではないだろう。
少女と先生の関係も不明瞭なのだが、その分妄想の余地がある。
そして何と言ってもこのMVである。
ラストセーラー服は血まみれになり、出産のオマージュとなる。
そして生まれ出でた巨大キューピー人形と少女は対峙。
大人になりたくないモラトリアムと、大人にならざるを得ない世間とのずれを描いた名作である。
ちなみにこの巨大キューピー人形には「都市夫」という名前がついている。
初めて聴いた時、私は愕然とした。
こんなありふれたモチーフがこんなセンセーショナルになっていいのか!!と。
少女と血糊、というのはいくらか文学や映像系を通った人間なら一度は通り過ぎるモチーフだが、これをモチーフにここまでショッキングな歌詞とMVを作ることができる松永天馬という男に嫉妬した。
少女の処女性を保ちながら、それを聖母マリアのように見立てることによって、「出産」を表現する…こんなことがあっていいのか!
ここで描かれる出産はあくまでオマージュであり、実際歌詞の主人公である少女が出産したとは一言も言及されていない。
しかし、大人になるということは少女にとって「セックス」と同義語であり、少女を少女のまま神聖化するのにマリアに見立てるのはどうしても必要なのだ。
大人になるとは数々の生きている証しを残す、ということ。
それをこのように表現したのはあまりに天才的である。
松永天馬の描く「少女」の芯にあるもの
続いてこちらのMVをご覧いただきたい。
「傷だらけのマリア」
このMVに登場する少女は、リストカットを繰り返す「特別」になりたがる少女である。
リストカットはするが、援助交際はしない。
ここにある「メンヘラ少女概念」は松永の意向がたっぷり含まれている。
松永は少女には処女性を重んじるので、軽々しく春を売るような少女を描かない。
不特定多数の少女への呼びかけとして楽曲を書くが、自分たちの楽曲を聴くことが個性だとは言わない。
それは以下の歌詞からも明らかである。
個性的なことしてみたい 個性がないから
個性的な女の子は こんな音楽 聴かない
このことから、松永の描く世界はあくまでアーバンギャルドの楽曲が存在する「現代」で、それは少し病んでおり、少女たちはそれを聴いていることがわかる。
箱庭的世界だが、現代の闇をきちんと描くという点では松永の試みは成功している。
「自撮入門」
「じさつにゅうもん」と読む。
SNSが問題になる現代において、「ありがち」な女の子をとことん「ポップ」な楽曲に乗せて歌い上げる楽曲。
誰かを攻撃したい、人気者になりたい、そういった心の暗闇を切り出す松永のメスは、この作品だけでもきらめきが伺える。
「平成死亡遊戯」
その松永の描く少女の集大成とも言えるのが、この「平成死亡遊戯」の主人公である。
平成というインターネットやコミュニケーションツールが発達したこの時代が終わりを迎えようとしているが、松永の描いた少女たちは平成を生き続ける。
今はレトロだと感じるADSLやISDN、テレホーダイというインターネット黎明期の単語が並び、平和ボケした日本人であることを懐かしむ歌詞だ。
この歌詞は現代の少女だけではなく、もっと幅広い(しかし狙い撃ちにした)ターゲットへと向けたものだ。
平成を駆け抜けた30代ぐらいの、もう少女とは呼べない人々。
そういった人間に向けた、「昭和九十年」目の餞なのである。
松永の描く少女は、今「ファッションメンヘラ」と呼ばれている少女たちにとても近いものがある。
それは平成という時代が生んだ暗部なのだろうし、その「ちょっと病んでる私」を普通だと思ったり逆に特別だと思ったりして自己肯定、自己修復をする「強さ」をみな持っている。
松永が描きたいのはそういった「人間としての生命力」なのだろう。
ただ装い的に「病み」を描くのではなく、ターゲットを狭めることで特定の層に「必ず」届く歌詞。
それをポップでキッチュな楽曲に乗せているのである。
こんな少女も描いていた!魔法少女に文学的心中、そしてアイドル
松永が現代の闇を切り出すのに長けていることは、今までのMVを見たことでお判りいただけたと思う。
となると、ちょっと王道から離れた楽曲も気になるのが人情。
ここで数曲紹介する。
「病めるアイドル」
「魔法少女と呼ばないで」
「ワンピース心中」
「コインロッカーベイビーズ」
これらの楽曲は「元ネタがある」と言われている。
「病めるアイドル」は某テクノポップガールズユニットが、「魔法少女と呼ばないで」は某有名魔法時少女アニメが、「ワンピース心中」は某文豪が、「コインロッカーベイビーズ」は同名の流行小説が元ネタだとされていて、なるほど確かに聴いてみるとそんな気がしてくる。
これらもやはり立派な現代社会の暗部であり、そのどれもが聴きやすいキャッチーなメロディに重めの歌詞が深読みを促進させる。
文学的なものやその時の社会情勢、時事ネタを曲にして残せるのがアーバンギャルドの強みでもある。
みんな、生きていけ!青空の下で生きていけ!
アーバンギャルドはこのようにメンヘラチックな楽曲が多いわけだが、彼らを語る上で絶対に外してはいけない楽曲がある。
少なくとも私はこの楽曲に触れなければアーバンギャルドの魅力を全て紹介したことにならないと思っている。
それは「シンジュク・モナムール」というこの曲だ。
「シンジュク・モナムール」
この主人公は失恋して、自殺することを決める。
しかし、少女の心はすぐに変わる。
どうせ死んだも同じならば、悲劇のヒロインを演じて生きてやろう。
死んだらその時点で負けたことになるから。
そんな決心を奮い立たせる、非常に前向きな楽曲だ。
この楽曲以前のアーバンギャルドには、死に対する憧れへの肯定はあっても、「死んじゃいけない」という説得はほぼなかったと言っていい。
それが「シンジュク・モナムール」では、屋上から飛び降りようとする少女に
シンジュク・モナムール
生きてるうちよ 死んだら負けよ それだけよ
飛んでくれるなお嬢さん 背中の翼が泣いている
シンジュク・モナムール
咲いてるうちよ 散ったら負けよ それだけよ
花芝居なら演じてよ シンジュクモナムール
と、語りかける。
少女はどうせ演じるのならば、悲劇のヒロインを「生きて」演じることを選択する。
傷ついても泣いてもこの世が地獄だと知っても、それでも生きてくれと、最後の最後まで嘘をついてくれと訴えるこの歌詞は、自己救済の曲としてファンにたちまちのうちに受け入れられた。
危うい少女たちの自意識の上に存在しているバンドだけあって、こういった全面的に自殺を止めるような歌詞は珍しい。
しかしこの楽曲を聴くことによって、少女、そして少女だった誰かが救われていく。
松永の描いた未来像は、案外明るいのかもしれない。
文=阿部春泥