坂本龍一の最新アルバム「async」(2017年)は英語のasynchronization(非同期)の略をアルバムタイトルにした同時代的なるものとの非同期を目論んだ作品だ。
ところが、この「async」が醸し出してしまう同時代性は、教授こと坂本龍一がひたすら、世界に対して耳を澄ませて音を拾うことで、否応なく表われてしまうものなのだ。そこには、坂本龍一は時代と同期することを「断念」し、己自身との対話を重ねながら、坂本龍一自身現代に生きていることに対するその答えのようなものを、音として表出する大実験をこの「async」で試みている。その非同期が巡り巡って時代に同期する原因になっているのではないだろうか。
非同期を目論見ながらも時代と同期するこの「async」を聴いていると、聴くものは坂本龍一が生み出した音楽、それもとてもノイジーな音世界に図らずも同期してしまう己に遭遇するので、この「async」を聴くという行為はどうしても内省的になるしかないのだ。
坂本龍一の略歴
1952年1月17日生まれの66歳。
出身は東京都中野区。
幼少より作曲を学び、東京藝術大学在学中には既にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始めていて、例えばフォーク・ミュージックの”言葉の魔術師”、友部正人のアルバムに参加するなど、当時から異彩を放つピアノ演奏を聴かせていた。
その後、細野晴臣、高橋幸宏とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成する。その人気は日本に留まらず世界でも爆発的な人気となり、YMOの音楽は現在にも続くエレクトロニクス音楽の先駆者として、また、テクノ・ミュージックの雄として一大ブームの中心的存在としてその功績は燦然と輝いている。
その後、YMOは散会し、坂本龍一はソロ活動を展開し始めるのですが、その音楽はテクノを始め、民族音楽や黒人音楽など様々なジャンルの音楽の融合を試みながら、独自の音楽を創出する。
また、大島渚監督作品の映画「戦場のメリークリスマス」(1983年)では自ら出演した上に音楽を担当し、そのテーマ音楽は現在も色あせることなく名曲として多くの人の心を揺さぶり続けているのだ。
1987年、映画「ラストエンペラー」で日本人初のアカデミー作曲賞を受賞したのを皮切りに、数々の賞を受賞し、坂本龍一はこのときに世界的な音楽家として一気にその階段を駆け上っのだ。
近年、がんを患い活動休止を余儀なくさせられましたが、幸いなことに病に打ち勝ち活動を再開、現在、精力的に活動をしている。
アルバム「async」の先進性
約8年ぶりとなった「async」には、アンビエント・ミュージック(環境音楽)の先駆者の一人、ブライアン・イーノを思わせる楽曲など、近年、坂本龍一の作品に登場するアンビエント・ミュージックやエレクトロニカをさらに坂本龍一流の味付けがされた先進的な楽曲が収録。
「async」の先進性は、一度、坂本龍一というフィルターを通った「現代」がどういうものか赤裸々に表出されていて、とても美麗な楽曲から、単純なリズムに複雑な音律を乗せている楽曲や、三味線や琵琶の音色が深い精神性を表す楽曲など、坂本龍一はこの作品でもさまざま実験を行っている。そのどれもが印象深く、心にその残響がしばらく残るのだ。
アルバム「async」は坂本龍一の集大成ともいえる作品
坂本龍一の音楽活動はスタジオ・ミュージシャンに始まり、YMOを経て、ソロ活動での様々な音楽的な試み、そして、映画音楽の大家という世界的な音楽家の顔を持つにいたったが、その道程で見出した坂本龍一の音楽すべてがこの「async」に注ぎ込まれていると思えて仕方がないのだ。
例えば第1曲「andata」は美しい旋律のピアノ演奏に聴き惚れていると、途中でノイズが現われ、ピアノでの美しい旋律がオルガンでの演奏に代わり、オルガンの響きがノイズが響き渡る中、今にも壊れそうに美しい旋律をかろうじて紡いでゆくのだ。
この「andata」一つ取っても、坂本龍一流にいえば、とても「非同期的に現代的」といえるのだろう。
坂本龍一が書く旋律の美しさは「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲が良い例だが、この上なく美しいのだ。それではなぜ坂本龍一は「andata」でこの上なく美しい旋律にノイズを乗せたのだろうか。
それは坂本龍一本人曰く、「ノイズも音楽」ということの実験なのだろう。
坂本龍一の中では美しい旋律とノイズが同等の比率を占めていて、坂本龍一は「andata」でノイズが大きく響き渡る中で、音楽が成立する極限を示すべく美しい旋律を奏でていたのだ。
「andata」は聴く人によっては「これは音楽ではない。ノイズだ」という人も多いだろうが、坂本龍一はあえて非同期といっているように、坂本龍一にとってそんなことにはこの「async」では関係なく、徹底して自分が求める「音世界」、坂本龍一はそれを「音響彫刻」と表現してるが、その「音響彫刻」を愚直に追い求めているのが「async」なのだろう。「andata」はその一例だが、坂本龍一は「async」で様々な実験を繰り返してるのだ。
つまり、「async」で坂本龍一はこれまでの集大成的なアルバムを制作したともいえる。
この「async」を音楽評論家で前衛的とする人もいるが、それは大きな間違いだ。坂本龍一が「async」で試みた「音響彫刻」は前衛的でもなんでもなく、坂本龍一にしてみれば、「async」に収められている楽曲は実験はしているが、前衛的なところは何一つなく、現代社会に生きながら「非同期」を標榜して、その結果、とても内省的な音楽が生まれたといえるのだ。つまり、坂本龍一がこれは音楽と思えるものが凝縮した作品がこの「async」なのだ。
そのために、この「async」は坂本龍一の集大成とみなしていいのではないだろうか。
まとめ
アルバム「async」は、坂本龍一のこれまでの集大成にして、坂本龍一の「現在」が分かる坂本龍一の記念碑的な作品といえる。
坂本龍一は「音」でありさえすればそれは「音楽」であることを示したくてこの「async」を制作したように思える。
インタビューで坂本龍一はこの「async」が車の中でどう聞こえるのか知りたくて、実際、ニューヨークの街中を自動車を走らせてみたと語っているが、それは街中にあふれる音、例えばそれは足音であったり、人の会話であったり、とても美しい旋律であったり、坂本龍一にとってはそれら全てが音楽であり、それをまざまざと示して見せたのがこの「async」なのだろう。
また、坂本龍一曰く、この「音響彫刻」は、とても内省的な音楽ともいえ、聴くものを思索に誘うに十分に奥深い音楽が「async」には収録されていて、「async」を一度聴いてしまうとどうあっても自己との対話を行わざるを得ないのだ。